「新・地方自治のミライ」 第26回 生活困窮者自立支援のミライ
時事ニュース
2023.05.17
本記事は、月刊『ガバナンス』2015年5月号に掲載されたものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、現在の状況とは異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。
はじめに
税・社会保障一体改革は、消費増税と社会保障強化とをセットで進める建前で行われた。社会保障制度改革には、セーフティネットである生活保護制度の改革も含まれる。しかし、通常、生活保護制度の見直しとなると、濫給や不正受給の防止、あるいは給付水準の「適正化」と称する引下げ、就労促進による自立促進、という話に矮小化されがちである(例えば、社会保障制度改革推進法附則第2条)。
もっとも、最後のセーフティネットでカバーできる範囲を減少しても貧困問題は解決しない。むしろ、貧困問題を「見て見ぬふりをする」だけに終わりかねない。貧困化社会のなかでは、旧来型の〈給付を減らす〉という「改革」(=見て見ぬふり)だけでは収まらない。生活保護の対象外でも、あるいは、対象になる前の、生活困窮者への対策が求められるようになった。こうして、2013年に生活困窮者自立支援法が制定され、本年15年4月から施行された。今回は、自治体現場に新年度から登場した生活困窮者自立支援のミライを検討してみたい。
事務の義務付けと内発的意欲
国は制度を設計・決定し、自治体がそれを運用・執行する、というのが、大まかな戦後日本の国・自治体間関係の役割分担である。
分権改革がどの程度実現したかはともあれ、ナショナル・ミニマムの色彩の強い社会保障では、国によって設計・決定された制度に基づく事務を、自治体によって運用・執行することが義務付けられる。2000年分権改革と同時に施行された介護保険制度でも、市区町村に介護保険という新しい事務を執行しない「自治」は分権時代でもあり得ない。定められた制度は、施行期日とともに、「粛々」と混乱なく実施することに、自治体の神経の大半は注入されることになる。
国に言われたことを「怒りも興奮もなく実行する」というこの自治体現場のエートスは、それ自体では、非常に大きな「国民的共有財産」である。国が素晴らしい制度を設計しても、それを実現する担い手がいなければ、国民福祉にとっては画餅にすぎなくなるからである(注1)。
注1 もちろん、その逆の推論も可能である。国が劣悪な制度を作っても、自治体が現場で抵抗して執行をしなければ、あるいは、執行段階で適切な調節をすれば、むしろ国民福祉は向上する。国の酷い制度を、自治体現場職員が、そのまま「アイヒマン」のように粛々と「有能」に実施すれば、国民福祉も惨いことになる。
ところが、新たな制度に基づく事務が義務付けられれば、制度の理念や目的を達成することではなく、義務付けられた事務を外形的・業務的に遂行することが、自治体にとっては当面の目的となりやすい。もちろん、義務付けられた事務を滞りなく実施できなければ、通常は、制度の理念も目的も満たされないだろうから、外形的・業務的な実施は、制度が効果を発揮するための必要条件ではある。しかし、外形的・業務的な事務執行は充分条件ではない。
自治体は、基本的には、国が設計・決定した制度を、内発的意欲の有無にかかわらず、実施する。特に、その制度が法定・必須事業であれば、それは法的義務であるから、なおさらである。しかし、そこにやる気があるとは限らない。生活困窮者自立支援制度は、まさにそのような状況に置かれた事務の典型である。
生活困窮者自立支援制度の理念
制度の目標は、①生活困窮者の自立と尊厳の確保、②生活困窮者自立支援を通じた地域づくり、にある。特に前者では、生活困窮者の多くが、自己肯定感・自尊感情を失っていることに留意し、尊厳の確保に特に配慮するとされている。そして、ここで言う自立とは、本人の自己選択・自己決定を基本に、経済的自立だけでなく、日常生活自立や社会生活自立など、本人の状態に応じた内容を持つ。そして、本人の内面から沸き起こる思いが主役となり、支援員がこれに寄り添って支援する、という極めて高邁な理念である。
しかし、多くの自治体現場は、必ずしもこのような理念に、内発的に突き動かされていないのもまた、実態である。「夕張ショック」、04年「地方財政ショック」、平成の町村合併、東日本大震災と原発事故、「増田ショック」などで、自治体は自己肯定感と自尊感情を失っている(注2)。「やれ」と国から強制されれば、仕方なくノロノロと外形的な作業はするが、魂も入らなければ、創意工夫もなければ、長続きもしない。
注2 それゆえに、「カラ元気」を振り絞ろうという動きもある。
そして、抑圧移譲というように、「弱いものはさらに弱いものを叩く」傾向がある。自治体職員は、地域の安定・優良職場に「頑張って」就職した、地域の「成功者」でもある。「頑張ればできる」は、ときに、「頑張らない奴はダメで仕方がない」に転換する。自尊感情を失った自治体のなかの「頑張ればできる」成功物語を(少なくとも就活までは)体感している自治体職員が、生活困窮者自立支援の業務に当たるとき、やりたくもない仕事に従事させられて、捌け口をどこに振り向けるかは、予断を許さない。
ミクロの就労第一主義とマクロの雇用構造崩壊
生活困窮者自立支援における自立は、上記の通り、就労による経済的自立だけではないし、就労自体も、「福祉的就労」「中間的就労」を含めている。しかし、表に出して言うかどうかはともかく、自立の最終目標は「真っ当な仕事にありつく」ことである。現行憲法でも勤労は義務であるし、世間道徳的にも「ブラブラして、タダで福祉(義捐金・補償金なども)を受けていないで働け」という規範(いやがらせ)は強固である。個々人に即したミクロの世界では、就労第一主義(work first)である。
したがって、これまでも求職者支援(11年10月〜)も含めて、雇用保険・公共職業安定所などを通じた就労支援が重視されてきた。そこで、こうした事務を強制される自治体は、外形的に仕事をこなすために、「履歴書の書き方」を研修することなどで、お茶を濁してきた。そもそも、Aさんを頑張って就労させても、別のBさんが失職するのであれば、マクロ的には「トコロテン」でしかない。しばしば、自治体にせよ受託業者・団体にせよ、就労支援の実績として、「○(マル)人就職」などというKPI(重要業績指標)を誇示したりする。確かに、Aさん個人の私的生活には、Aさんの就活成功は意味がある。しかし、それがBさんの失職によってもたらされる限り、社会的には「○(ゼロ)人就職」でしかない。
Aさんが就職し、Bさんが失職せず、地域あるいは日本全体の就労または雇用が拡大したときに、社会的・公共的に意味が出てくる。しかし、就労支援に携わる自治体現場職員において、こうしたマクロ的構造が実感できることは多くはない。小規模町村であれば、○○町村内雇用の総量の拡大が明認できるかもしれない。しかし、大規模市では目に見えるものではない。また、X町の就労が、Y村での失職になっているのであれば、虚しいゼロサムの「椅子取りゲーム」にしかならない。このような雇用構造のもとでは、自治体現場職員から思いが湧き出たとしても、虚しいだけである。
おわりに
生活困窮者自立支援制度は、極めて重要な挑戦である。しかし、その理念の実現を阻むものは非常に多い。そうなれば、貧困対策には効果がないまま、国としては素晴らしい制度を作った、自治体としては一生懸命自立支援をした、という弁解を提供することにしかならない。構造改革により、雇用・労働の非正規化とリストラが進行し、公共事業の削減により地域現場での雇用創出は困難となり、他方で、介護労働現場では劣悪な労働条件で職員の定着は進まない、という労働・経済のマクロ構造が阻害要因である。
生活困窮者自立支援制度は、一方では、こうしたマクロ構造を作りかえるための梃となることが期待されるかもしれない。しかし、それは、国がなすべきことの自治体への責任転嫁である。生活困窮者自立支援に、魂を吹き込まれるか、魂のないミイラとして乾涸びていくかは、自治体現場の内発的意志もさることながら、国がきちんとマクロ労働・経済構造にメスを入れられるかにかかっていよう。
Profile
東京大学大学院法学政治学研究科/法学部・公共政策大学院教授
金井 利之 かない・としゆき
1967年群馬県生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学助教授、東京大学助教授などを経て、2006年から同教授。94年から2年間オランダ国立ライデン大学社会科学部客員研究員。主な著書に『自治制度』(東京大学出版会、07年)、『分権改革の動態』(東京大学出版会、08年、共編著)、『実践自治体行政学』(第一法規、10年)、『原発と自治体』(岩波書店、12年)、『政策変容と制度設計』(ミネルヴァ、12年、共編著)、『地方創生の正体──なぜ地域政策は失敗するのか』(ちくま新書、15年、共著)、『原発被災地の復興シナリオ・プランニング』(公人の友社、16年、編著)、『行政学講義』(ちくま新書、18年)、『縮減社会の合意形成』(第一法規、18年、編著)、『自治体議会の取扱説明書』(第一法規、19年)、『行政学概説』(放送大学教育振興会、20年)、『ホーンブック地方自治〔新版〕』(北樹出版、20年、共著)、『コロナ対策禍の国と自治体』(ちくま新書、21年)、『原発事故被災自治体の再生と苦悩』(第一法規、21年、共編著)など。