マイナンバー・ICTが拓くセキュアで豊かな社会
第5回 カフェ発 「トロイの木馬」 大学生が犯行予告?
ICT
2019.04.08
第5回 カフェ発 マイナンバー・ICTが拓くセキュアで豊かな社会
カフェデラクレでの出来事
「トロイの木馬」 大学生が犯行予告?
何気ない1日
ある日の夕方、都内文田区にあるカフェデラクレ(Café de la clé)。近くの大学では、ちょうど最後の講義が終わる時間帯だ。昨日までの天気とはうって変わり、朝から雨が降り続いていた。
アルバイトの絵美は、その大学に通う学生で、裏手にあるシンクでお冷や用のグラスを拭いていた。マスターの加藤は、空いている時間を使って買い物に出ており、絵美は一人だった。
カランカラン♪
「いらっしゃいませ。」
声をかけながら絵美が入り口に目を向けると、大学の同期、市倉雅史が立っていた。
「お、緑川。ここでバイトしてるの?」
濡れた傘を傘立てにいれ、声が聞こえた方向に顔を向けた市倉は、絵美だと気づいて言った。
「うん、いらっしゃいませ。珍しいね。」
絵美にとって雅史は講義で会えば話す程度の友人で、いつも周りに人がいたため二人で話すのは、今日が初めてだった。
「金子と飲み会の約束をしているんだけど、時間があいちゃってさ。校内をぶらつこうにも、この雨だし。コーヒーでも飲みながらレポートを書こうと思って、来てみたんだよ。どこに座ればいい?」
雅史は、店の中を見回しながら聞いた。
「どこでもどうぞ。こんな天気だし、今日はそれほどお客さん増えないと思うから。」
絵美はそう言うと、慣れた手つきでグラスに氷をいれはじめた。
「お、そうか。じゃあ、あっちでレポート書かせてもらうよ。石山先生の論理学、緑川もとってたよね。手書き指定だから面倒だよね。締切は明日だから、今のうちに書いておかないと。」
雅史は窓際の席に腰掛けると、少しぬれた鞄をタオルで拭き、すぐさまレポート用紙とノートを広げた。絵美は記憶をだどり、すでに提出したことを確認した。まずは一安心とほっとした絵美は、水をいれたグラスをお盆に載せ席に向かった。
「ご注文は?」
「寒いから暖かいものがいいな。」
雅史はグラスを置く絵美の横顔を見ながら答えた。
「コーヒー、紅茶? ゆず茶とかあるけど。」
「お、じゃ、ゆず茶で。」
雅史はそう答えると、ノートを読みながら、レポート用紙に課題の論理式や証明を書きはじめた。
スマホの音が鳴ったのは、2時間程経ったときだった。鞄からスマホを取り出すと雅史は、「おう、わかった。今から向かうよ。」と手短に答え、会計を済ませ絵美に一声かけて店を出て行った。
翌日から天気は回復し、結局この一週間で雨が降ったのは、この日だけだった。
* *
―5日後の月曜日。
カランカラン♪
「おはようございます。」
絵美がカフェデラクレに時間通り現れると、見覚えのない男女2人が、マスターの加藤と常連の竹見とカウンター越しに話しているところだった。
「絵美ちゃん、ちょっと。」
邪魔をしないようにすぐに裏に向かおうとする絵美に、加藤が声をかけた。
「 はい。」
絵美が、裏に向かうのをやめカウンターの前に立つと、加藤がすぐさま絵美に近づき声を低くして絵美に耳打ちした。
「警察の人なんだけどね。」
突然警察が・・・
「警察?」
絵美は、何のことかわからないまま逆に色々聞きたくなり、加藤に近づこうとした。しかし、絵美が加藤に近づこうとした瞬間、二人組のうち、女性の方が割って入ってきた。
「緑川絵美さんですね。文田警察署の福岡と申します。こちら、村田です。ちょっとお伺いしたいことがあるんです。」
物腰は柔らかだが、淡々とした口調で絵美に向かって言った。
「はい、なんでしょう。」
絵美は、よくわからないことがおきていることに少し警戒しながらゆっくりと答えた。
「ある事件の捜査をしています。5日前の6月27日水曜日ですが、緑川さんは、こちらで勤務なさっていますね。」
「はい、水曜日の午後は、ここでバイトをしていました。」
絵美は、何のことかわからないまま、答えた。
「何時から勤務していましたか?」
「水曜日は午後の講義がないので、いつも割と長くここにいます。その日も13時ぐらいから閉店までいました。」
絵美は、週の半分ほどの平日、講義の合間をみてバイトに来ている。
「5日前は、どんな日でしたか?何か普段と違ったことはありませんでしたか?」
「よくここにいるので記憶がごちゃごちゃしていますが、水曜日の午後はどうだったかなぁ。」
絵美は、加藤の方を向いて尋ねようとしたが、加藤は不安そうに絵美を見つめるだけだった。どうやら自分で答えなければいけないようだと判断した絵美は、福岡に向かって言った。
「ええと、水曜日。あぁ、雨が降った日ですね。雨だったので、あの日は全然お客さんが来なくて、わりと暇でした。」
福岡はうなずくと、丁寧に尋ねた。
「その日来店した客、どういう人だったか覚えていますか?」
「ええと、あの日は雨だったからか竹見先生もいなかったし、よく来るママ連も来なくて、軽い雨宿りみたいな一見さんのサラリーマンっぽい人がいたような。他にも何人か。あ、そうだ。同じ大学の市倉君が来ました。」
福岡がさらにゆっくりとした口調で尋ねた。
「それは何時頃でしたか?」
絵美は、下を向いて、少し考えながら答えた。
「ええと、ちょうどマスターが次の日のランチ用のパスタがなくなった、とか言って買い物に出ていたときにお店に来たんです。たぶん市倉君は4限をとっているので、4時半ぐらいだったと思います。」
加藤はその話を裏付けするように、横から会話にはいってきた。
「そのとおりです。その日は、本当にお客がいなくて、これ以上二人お店にいても仕方ないと思い、僕、4時過ぎに買い物に出かけたんです。普段は近くのスーパーで買っているんですが、運悪く売り切れていたので、ちょうど良い機会だと思い、思い切って電車で二駅先の輸入食材店まで買いに行ったんです。せっかくだから新しいメニューのことなども考えようと思って、いろいろな食材や紅茶を見て回ったので、戻ったのはたぶん7時近かったと思います。」
「そうそう、マスターが帰ったときには、市倉君もうお店出ていました。7時前に金子君から電話がかかってきたみたいで、これから一緒に飲むんだって言っていたような気がします。」
絵美は、福岡の方を見ながら答えた。
「その間、市倉さんはお店でどんなことをしていたんですか?」
横から、もう一人の警察官、村田が尋ねた。
「市倉君がお店で何をしていたかですか?確か、論理学のレポートを必死になって書いていたと思います。翌日木曜日の講義内が締めきりだったので、かなり熱心に書いていました。」
「その間に、携帯やPCで何か作業をしてはいませんでしたか?」
「いや、全然。市倉君、席に座るとすぐにレポート用紙にかじりついていました。そもそも金子君からの電話がかかってくるまで、スマホは鞄の中にあったのだと思います。電話が鳴ったとき、鞄の中から取り出すのを見たので間違いありません。たぶん、レポートを片づけないとまずいと思っていたから必死だったんじゃないかなぁ。」
福岡は村田と顔を見合わせ、絵美に向かって言った。
「そうですか。丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。質問は以上です。」
そう言うと、2人は会話を打ち切り、お店から出て行こうとした。たまらず、絵美がうしろから声をかけた。
「何の事件なんですか?」
「それは捜査に関することなので。」
福岡は言葉を濁し、再度礼を言うと店から出て行った。
得心がいかない絵美は、加藤と竹見に向かって事情を聞こうとしたが、2人とも絵美が来る前には何も説明がなかったと言うだけだった。結局、3人とも「市倉に関する事件なんだろう」という推測はできたが、何の捜査なのかは皆目わからないままだった。