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第5回 カフェ発 「トロイの木馬」 大学生が犯行予告?
ICT
2019.04.08
犯人と間違えられて逮捕!?
カランカラン♪
その日の夕方、絵美が仕事をしていると、雅史が現れた。
「いらっしゃい、市倉君。さっきね………」
「緑川、本当にありがとう。」
絵美が話し終わらないうちに、雅史はまっすぐ絵美に向かって丁寧に頭を下げた。
絵美は、何のことだかさっぱりわからず、目を白黒させるだけだった。
いつもの席に座っていた竹見も、例の市倉だと気づいてカウンターの方へ移ってきた。
「いったい何があったの? 昨日警察の人が来て、市倉君について色々聞かれたんだけど。」
「いや、なんかさぁ。」
雅史はカウンターに腰掛けると、おもむろに説明をはじめた。
* *
どうやら雅史は、匿名掲示板に“6月27日昼、帝都大学に爆弾をしかけた、この爆弾は丑三つ時に爆発する”という犯行予告を書き込んだ犯人と疑われたらしかった。雅史は警察に事情を聞かれた際、匿名掲示板をあまり使わないし、そんな書き込みもした覚えはない、と主張したが、なかなか信じてもらえず、結局逮捕状が出て、月曜日の朝早くに逮捕されたとのことだった。
雅史は、大学の近くで一人暮らしをしている。2階建ての新しいがプレハブでできているアパートに住んでいた。疑われた日時は講義がないことはすでに警察の調べがついていて、何をしていたか訊かれたため、デラクレで絵美に会ったと言ったらしい。
「それでさ、あの日、ここで緑川に会ったこと思い出して、警察に着いてすぐに説明したんだ。それで、ついさっき、釈放されたというわけ。緑川が証言してくれたって、刑事さんが言ってたけど、あの日、ここで偶然緑川に会わなかったら、あやうく犯人にされるところだった。本当に感謝しているよ。どうもアパートのパソコンに痕跡が残っているようなんだけど、おれのアパート、防犯カメラとか付いてないから、家にいなかったことを証明できなくて逮捕されてしまったというわけさ。」
雅史は、“まいった” という顔をしながら一気に話した。
「逮捕されたってことは、かなりの証拠がそろっていたってことだろう。市倉君のPCからその痕跡が見つかったということかね?」
横で話を聞いていた竹見が尋ねた。
「俺のPCに、痕跡があったらしいんです。全く覚えがないし、結局PCも押収されてしまったので、自分で履歴も見られないありさまなんです。でも、緑川の証言のおかげで、俺が嘘を言っていないことは信じてくれたというわけです。」
雅史は絵美の方を向いて、強く頷きながら言った。
「最近、そのPCに何か普段と違うことはしなかったかい?」
竹見が再度尋ねた。
「普段と違うことですか? 特には。あ、でも、急に先週ぐらいから、PCが重くなったんですよ。調子悪そうだから、あの日は電源切らずに、PCの最適化とかいうやつ、回してから出かけたんです。帰ってからチェックしたんですが、やはり調子は戻っていませんでした。」
「その日は、電源を入れたまま出かけたのかい。」
「はい、帰ってすぐ切りましたけど。その週末は友達と出かけたからPC触らなかったし、その後すぐ押収されてしまったので………」
「なるほど、もしかしたら原因がわかるかもしれない。加藤君、絵美ちゃん、また来るよ。市倉君、釈放されてよかったね。」
竹見はそういうと、足早に店を出て行った。残されたかたちになった雅史はその後も絵美に何度も礼を言って店を出ていった。
* *
数日後、竹見が現れ、市倉を連れてくるように絵美に伝えると、すぐに雅史が店に顔を出した。カウンターに竹見と雅史が並んで座るのを見て、絵美と加藤はその前に立って2人の話を聞くことにした。
「竹見先生、市倉君、連れてきましたよ。」
絵美は、そう言って竹見に会話を促した。
「市倉君のPCは、おそらく、トロイの木馬にやられたんだと思う。」
「トロイの木馬って、確か有名なマルウェアですよね?」
「そう広義のウィルスと言われていて、語源はギリシャ神話なんだ。トロイア戦争でトロイアを陥落させるために木馬を作って兵を潜ませ、それを市内に運び込ませる奇襲に使われた木馬になぞらえて名付けられたマルウェアの一種というわけ。今回は,市倉君のPCがこのマルウェアに感染したことで,犯人に操作されて勝手に犯行予告を書き込まれたということだと思う。」
「え!他の人によって動かされたんですか?そういう事件をニュースで見たことがあるような気がしますが、まさか身近な人が巻き込まれるなんて!(*)」
絵美は、思わず大きな声を出した。
「今回は、市倉君のPCがトロイの木馬に感染した状態のままずっと無防備だったから事件に巻き込まれたのだと思う。おそらく犯人はじっと機をうかがい、市倉君がPCの電源を切らなかった日に操作をしたのだと思う。いずれにしても、絵美ちゃんの証言によって時間のアリバイが成立したので疑いが晴れてよかったね。」
*トロイの木馬によって引き起こされた事件として、有名なものに2012年に起きたパソコン遠隔操作事件がある。
この事件では、トロイの木馬に感染したPCの持ち主が犯行予告等の犯人に疑われ、えん罪となりかねなかったことで大きな話題になった。しかも、真犯人の証拠判定が決め手にかけたため、真犯人までがえん罪だと訴え、警察の混乱がクローズアップされる事件でもあった。
結局、警察はコンピュータの証拠を見つけるのではなく、地道な捜査によって犯罪の証拠をつかみ、事件の解決に至った。まさに高度な情報技術を駆使した犯罪に対して、如何に警察の捜査が難しいかを物語る事件であった。
無料のツールからウイルス感染
雅史は、竹見の博識に驚いて尋ねた。
「竹見先生、そういう仮説をどの時点で思いついたんですか?」
「この前、ここで市倉君の話を聞いて、何となくそんな気がしたんだ。警察にちょっとしたツテがあるので、この可能性について指摘してきたというわけさ。今回は予測があたったということかな。」
竹見が笑顔で言った。
* *
その数日後、再び雅史がカフェデラクレに現れ、警察から真犯人が逮捕されたことや疑ったことに対する謝罪を受けたことを話した。ちょうど竹見も店に顔を出していた。
「ここに来たことを証言してもらえて本当によかった。」
雅史は前回と同じように、絵美に向かって何度も感謝の言葉を繰り返した。これで事件がおわったと安心した絵美は、最後まで疑問に思っていたことを市倉に訪ねた。
「ところで、なんでトロイの木馬なんかにやられたの?」
絵美は、雅史に尋ねた。
「いやぁ、それはちょっと………」
雅史が返答を躊躇しているのを見て、竹見が横から突っ込みを入れた。
「無料の動画ツールについていたウィルスに感染した可能性が高いそうだから、おおかたエロサイトか何かを見てたんだろう。」
「最悪。」
絵美は、雅史の方を見ずに一人つぶやきながらカップを磨き始めた。
「いえ、先生、ちょっとそういうのは黙っていて下さいよ!」
こうして、この日もカフェデラクレには平和な時間が流れていった。