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第7回 カフェ発 自治体だとダメだけど、ゲームだとOK? プライバシーに関する感覚の難しさ
ICT
2019.04.26
位置情報は高齢者支援や災害時にも役に立つ
カランカラン♪
「いらっしゃいませ」
加藤が入り口に目を向けると、里中が現れた。
「マスター、コーヒー頂戴」
「里中さん、いつもどうも」
マスターは、いつも通りコーヒー淹れはじめた。
「ちょっと、聞いてよ。自治体が人のことを年寄り呼ばわりするのよ」
いつものカウンターに座るなり、里中が憤慨した様子で話し始めた。
「おや、そんなに怒ってどうかしたんですか?」
里中は、横においたバッグからスマートフォンを取り出すと、マスターに向かって言った。
「最近ね。文田区の人が見回りに来るんだけど、その人に高齢者支援アプリを入れろって言われたのよ。私の娘は群馬に住んでいるんだけど、遠いじゃない。で、高齢者の一人暮らしの人向けにアプリをつくったから入れろって。これで見守りをします、とか言うのよ」
里中はシャキシャキ歩くし、会話もはっきりしているので年寄りには見えないが、年齢的には高齢者と呼ばれる年齢である。
「最近はそんなサービスがあるんですか。里中さんは健康そうですけど」
「ほら、この前、川が氾濫しそうになったじゃない。うちがある位置ね、あの時に氾濫していたら、被害が出たかもしれないって言うのよ」
前回の台風がもたらした大雨で、近くの神川上水が氾濫しかかったというニュースが流れていた。どうやら、里中の自宅がその被害予想地区に入っていたということらしい。
「それでね、高齢者の避難が完了したかどうかを文田区が判断したいということで、高齢者にアプリの導入を促しているらしいの」
加藤は自分の淹れたコーヒーを里中に出しながら言った。
「確かに自治体は、全員避難したかどうか知りたがってますね。でも、里中さんは特別な存在ですが、普通の高齢者はあまりスマホを持っていないのでは……」
「それが最近はもっている人、いっぱいいるらしいの。ガラケーに、メールが来て、そのメールに返事をする仕組みらしいんだけど、それがスマホだと、自動的に場所を検知できるので、返事がいらなくて楽ですよ、って言われたの」
「なるほどね。確かに位置情報があれば、ある程度自動的に確認できるから、楽でしょうねぇ」
「でも、年寄り向けアプリ、っていうのが気にくわないし、おまけに文田区が私の位置情報を確認できる、っていうのが嫌だわ」
里中は、コーヒーを一口飲むと、憤懣やるかたないという感じで背筋を伸ばした。
「まぁ、そうですねぇ」
「だって、誰かに監視されているみたいで気持ち悪いじゃない」
カランカラン♪
「あ、竹見先生、いらっしゃい」
常連の竹見が現れた。竹見は近くの帝都大学を定年退職した元教授で、このカフェデラクレの常連である。
「竹見先生、ちょっと聞いてくださいよ」
里中の声に気がついた竹見は、カウンターに座っている里中の隣に座った。
「いつもの。で、里中さん、どうしたんですか?」
竹見は、加藤に向かって声をかけると、里中の方に向いて話を促した。里中は、竹見に憤懣やるかたない思いをぶつけるように一気に説明した。
「位置情報ってプライバシーでしょ。何で、誰かに知られなきゃいけないの?」
竹見がニコニコしながら話を聞いていると、加藤が目の前にコーヒーを差し出した。
「加藤くん、ありがとう」
そう言うとコーヒーを一口飲み、顔を上げて言った。
「でも、里中さん、この前、カプモンGO、絵美ちゃんに頼んで設定していませんでしたっけ?」
「ええ、だって、孫と共通の会話がほしいから頼んだのだけど。それが、自治体の話と何か関係あるんですか?」
里中は不思議そうな顔をしながら、竹見に尋ねた。
「あれも、位置情報使ってますよね。カプモンGOの管理者は、里中さんがゲームをしている間、いつどこにいたのか、やろうと思えば全部わかります。そうじゃないと、そもそもあのゲームは成立しませんよ。」
「あらそうなの?てっきり、自分のスマホだけが位置情報を見ているんだと思っていたわ」
「だって、電波が届かない場所では、ゲームをすることはできないでしょ?」
「そういえば、そうね」
「電波が届く空間であればゲームが出来るということは、会社側からすると、電波が届く範囲であれば全ての位置情報を把握できるってことですよ。まぁ、そんなことをしている管理者はいないと思いますが……」
竹見はコーヒーに再び口をつけると、さらに説明を続けた。
「あのゲーム、アプリベンダーは有名な企業なので、おそらく取得しているデータを悪用することはないと思います。でも、過去に人気のあるゲームの名前によく似たアプリをインストールするだけで、スマートフォン内のデータを不正に取得されたという事例もあるので、注意するに越したことはないと思いますよ。(*)
恐らくですが、文田区のアプリとカプモンGOが使っている情報はそんなに変わらないと思います。文田区を信じるか、あのアプリベンダーを信じるか、悩ましい問題だと思いませんか?」
じっくり話を聞きながらコーヒーを飲んでいた里中が、竹見の説明が一区切りしたのを見て、ふとつぶやいた。
「アプリベンダーは情報系の専門家だけど、文田区は素人集団だから色々なエラーを起こすかもしれないわね。だって、自治体の人たち、しょっちゅうミスするじゃない」
それを聞くと、竹見と加藤は思わず吹き出した。ひとしきり笑うと、竹見が再び口を開いた。
「自治体は既に多くの個人情報を持ってますよ。国はあんまり持っていませんが、文田区のように、子供むけサポートや高齢者の医療に関する支援などを行っている自治体の場合、住んでいる場所だけでなく、支援を行うために色々な個人情報を既に抱えているんです。だから自治体の人からすると、そこにちょっと加わるだけというイメージなんでしょうね」
「でも、やっぱり、どこにいるかが誰かに知られるっていうのはちょっとねぇ。ゲームは楽しいけど、やめた方がいいのかしら?」
「そういう考え方もあると思いますが、文田区に避難のための情報を渡せば、里中さんが災害時にどこにいるのかが簡単にわかるので、助けに来てくれる可能性が高まるのでは?結局、そこのメリットをどう考えるかじゃないですかね」
「そうねぇ、確かに助けには来てほしいわ。ここら辺がよく竹見先生が言っているトレードオフ、というやつなのね。ゲームがやりたいとか、いざというとき助けてほしければ、情報を渡さないといけないってことね。ろくに考えもせずになんでもひょいひょい『うん』と言っていてはいけないってことねぇ」
「そのとおり。ゆっくり考えればいいんです。すぐに結論を出す必要はないと思いますよ」
竹見はこう言うと、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
*不正アプリの横行
少し古いニュースですが、2012 年、有名なゲームの名前をかたって、その名前の後ろに簡単な単語を追加するだけのゲームが沢山出回りました。このゲームは、本当にゲームができるわけではなく、アプリをインストールすると、スマートフォン内のアドレス帳や位置情報に関するデータなどが自動的にサーバにアップする仕組みです。このアプリの問題は、当時、ニュースで大きく報道されました。また、情報セキュリティに関する社会問題を扱っている独立行政法人情報処理推進機構からも注意喚起が出ています。