石原信雄回顧談 一官僚の矜持と苦節

自治官僚として今日の地方財政制度の基盤を築き、 内閣官房副長官として7人の内閣総理大臣に仕えた石原信雄氏の足跡!


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第一章入庁から自治庁財政課で「見習い」として…………6の方式に変えることで検討が進んでいました。石原自治庁はもちろんそうですが、全国知事会もそのような考え方でした。私の採用時には地方自治庁・地方財政委員会でしたが、帰任時には自治庁になっていて、自治庁財政局財政課に配属されましたが、そこが財政関係の制度立案の中心でした。その当時、地方財政平衡交付金制度がこのままでは立ち行かなくなることは、地方(自治庁)も国(大蔵省)も認識していたと思います。何よりも制度の仕組みがどうあるべきかという以前に、昭和二四年のドッジ・ラインによる予算のときに地方配付税の配付税率が半減(三三・一四%→一六・二九%)されることで地方財源が大きく圧縮されていました。ドッジ氏は銀行家から総司令部の顧問となった人で、戦後のインフレを断ち切るために二つのことをしました。一つは歳出の思い切った削減、もう一つは増税です。増税では消費を抑えるために取引高税を導入しました。現在の消費税よりも、もっとシンプルなかたちで大増税を行ったわけです。歳出削減では二つのことに重点を置きました。一つは価格差補給金というものです。価格差補給金とは、価格体系に影響を与えて本来の製造コストを消費者が負担するようにすることで、結果的に消費を抑えてインフレを抑える効果を狙ったものです。もう一つは地方配付税ですね。地方配付税は国の歳出の中での最大項目だったため、まったく理屈抜きで国税の一定割合として定められていた地方配付税率を半減してしまったのです。地方配付税率を半分にした金額に基づく地方財政推計がベースになって地方財政平衡交付金の額が決まりましたが、初年度の昭和二五年度は、シャウプ勧告では一二〇〇億円とされたものの、国の予算折衝の結果、


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