石原信雄回顧談 一官僚の矜持と苦節

自治官僚として今日の地方財政制度の基盤を築き、 内閣官房副長官として7人の内閣総理大臣に仕えた石原信雄氏の足跡!


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入庁当時のこと…………3入庁当時のこと‒昭和二七年の入庁以来、地方財政制度の根幹にかかわる制度の設計や運用の大部分にかかわってこられました。石原ちょうど私が役人になったころから、戦後の新しい地方税財政制度の議論が始まったところでしたから、変動期にその役所にいたという意味で、いろいろかかわる機会が多かったのではないかと思います。私は昭和二七年に大学を卒業しましたが、当時は地方自治庁と地方財政委員会、それに全国選挙管理委員会に分かれていた時期だったので(1)、本庁に定員がありませんでした。先輩たちが将来旧内務省のようなものを復活させたいと考えておったらしくて、地方公務員幹部候補者試験という、国家公務員上級職試験に合格した者で、将来地方行政の仕事をしたいという者を対象にした試験があったのです。私も就職に当たって、い(1)内務省は、連合国軍総司令部(GHQ)の強い意思によって昭和二二年一二月末に解体される。自治系は全国選挙管理委員会と地方財政委員会、内事局(二三年三月にはさらに国家公安委員会と官房自治課に分割)に三分割された。その後、昭和二四年六月には、地方財政委員会と官房自治課を合わせた地方自治庁が発足した。シャウプ勧告に沿って、昭和二五年六月には、地方自治庁とは異なる組織として地方財政委員会(第二次)が発足したものの、その事務局は地方自治庁の財政課が兼ねるかたちとなった。石原氏の入庁時は、地方自治庁・地方財政委員会であったが、昭和二七年八月に両者と全国選挙管理委員会が統合されて自治庁が発足したので、帰任時には自治庁となっていた。昭和二七年のサンフランシスコ講和条約発効で占領統治は終了するが、二六年四月にリッジウェイ中将がマッカーサーに代わって最高司令官に就任以降は、占領統治は、事実上、段階的に終了している。昭和三五年七月に、国家消防本部と自治庁を統合して自治省が誕生した。


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