南三陸町 屋上の円陣 ―防災対策庁舎からの無言の教訓―

「きっと守り抜く」 宮城県南三陸町の防災対策庁舎の屋上で円陣を組み、必死に津波に耐えようとしている人たちがいた。 そこには、強い決意で女性、高齢者、若い職員たちを円陣の内側に入れ、生死の瀬戸際にありながら、最後まで人間の尊厳と誇りを失っていない姿があった…。 「その時、何が起こっていたのか」今だからこそ明らかにできる防災・危機管理アドバイザー山村武彦による渾身のノンフィクション。


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20⑴ついにアイツがやってきた!2011年3月11日(金)、智さんは防災庁舎2階で執務中だった。当時の危機管理課は阿部慶一課長、三浦毅課長補佐、佐藤智係長、遠藤未希さん、三浦卓也さんの5人体制だった。当日は定例議会の最終日で、阿部課長は本庁舎の議場に行っていた。また、若手の三浦卓也さんは、数日前から身内の不幸による忌引き休暇中だった。つまり地震発生時、防災庁舎2階の危機管理課にいた職員は、毅さん、智さん、未希さんの3人だった。ただ、その日は防災行政無線の点検調整のため、午後から業者も2人きていて危機管理室にも頻繁に出入りしていた。(業者のうち1人は屋上で犠牲になる。)午後2時46分過ぎ、小さな揺れを感じる。最初は「また余震?」と思った。このところ地震が続いていたからである。2日前の3月9日午前11時45分、牡鹿半島の東、約160㎞、深さ8㎞を震源とするM7・3(速報M7・2)の地震があった。その時の最大震度は栗原市などで震度5弱、南三陸町は震度4だった。3分後に津波注意報が発表されたため、危機管理課は三浦毅課長補佐が中心となって防災行政無線を作動させ、「津波注意報が発表されました。海岸付近から離れてください。津波に注意してください」と録音コメントの機械放送で対応した。観測された最大津波高は大船渡で55㎝程度と被害は軽微だった。南三陸町も被害はなかったが、12分後のM6・3をはじめその後余震が頻発する。


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