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15第2章「奇跡のイレブン」それぞれの3・11が、海の見えない内陸地域の人たちは避難が遅れて多くが犠牲になっている。どれほど恐ろしい災害の教訓でも伝承し続けることの難しさを垣間見る思いがした。智さんは1966年高校卒業と共に気仙沼・本吉地域広域行政組合消防本部・志津川消防署に奉職。その後約20年間消防署員として勤務した後、志津川町職員に身分移管し消防団・防災などを担当する総務課に配属される。2005年に志津川町と歌津町が合併して南三陸町になった後、危機管理課係長となり東日本大震災で九死に一生を得、緊急対応、復旧・復興活動に貢献する。地域防災一筋に42年間勤め上げての定年退職であった。合併前から「災害に強いまちづくり」を推進し、合併後も町の防災力向上の先頭に立ってきた。にもかかわらず、震災で多くの住民と仲間の犠牲者を出してしまった。その上、母親さえ守り切れず自分だけ生き残った。震災後、智さんは自責の念に苛まれる毎日だったという。「いっそ、あの時、屋上で死んでいたほうがどれほど楽だったか」と何度も思ったそうだ。私が初めて智さんと出会ったのは、震災前の2009年12月である。翌年の5月24日がチリ地震津波50周年だったこともあって、その前から岩手、宮城などの講演に招かれていた。その合間にチリ地震津波の遺跡や体験者を訪ねて三陸浜街道を回っていた。1960