南三陸町 屋上の円陣 ―防災対策庁舎からの無言の教訓―

「きっと守り抜く」 宮城県南三陸町の防災対策庁舎の屋上で円陣を組み、必死に津波に耐えようとしている人たちがいた。 そこには、強い決意で女性、高齢者、若い職員たちを円陣の内側に入れ、生死の瀬戸際にありながら、最後まで人間の尊厳と誇りを失っていない姿があった…。 「その時、何が起こっていたのか」今だからこそ明らかにできる防災・危機管理アドバイザー山村武彦による渾身のノンフィクション。


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14523戸が罹災。実に76・9%の罹災率に上り、南三陸町の地区別で最悪の罹災率となっている。智さんの自宅は海岸から約2㎞内陸の陸前戸倉駅に近い西戸地区だったので、自宅と共に身体の不自由な母親(74)が犠牲になっている。防災庁舎にいた智さんは、助けに行くことができなかったことに今も忸怩たる思いを拭えずにいる。痛ましい限りである。戸倉地区には昔からの言い伝えがあり、江戸時代の慶長三陸地震(1611年12月2日・M8・1以上)でも津波が村々を襲い山の奥深く押し込んできたという。智さんも祖父などからよく聞かされたことを覚えている。海岸から遠く離れた内陸の地名に、津波の痕跡が遺されていると教えられた。例えば「蛸たこ沢ざわ」とか「田子沢」(通称たこざ)と呼ばれている沢は、大昔に志津川湾の蛸が津波で流されてきて名付けられたものだとか、津波で甚大被害を出した沢を「大た害がい沢ざわ」と呼ぶこと、舟が内陸奥深く流されてきた「舟ふな沢ざわ」などなど。内陸には似つかない名前が残っていた。「そうやって、昔の人は海が見えないところまで押し寄せる津波の恐ろしさを孫子の代まで伝えようと地名に託してきたのではないか」と智さんはいう。それでも世代が代わって何代か経ると、海から離れた地域の人たちは津波への関心が低下する。今回の震災でも、海岸近くの人たちは比較的早く高台に避難した


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