南三陸町 屋上の円陣 ―防災対策庁舎からの無言の教訓―

「きっと守り抜く」 宮城県南三陸町の防災対策庁舎の屋上で円陣を組み、必死に津波に耐えようとしている人たちがいた。 そこには、強い決意で女性、高齢者、若い職員たちを円陣の内側に入れ、生死の瀬戸際にありながら、最後まで人間の尊厳と誇りを失っていない姿があった…。 「その時、何が起こっていたのか」今だからこそ明らかにできる防災・危機管理アドバイザー山村武彦による渾身のノンフィクション。


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13第2章「奇跡のイレブン」それぞれの3・11と一緒に旧志津川町に合併するまでは本吉郡戸倉村(人口4356人)であった。戸倉村もその前は1875年に水沢県の村落統合によって折立村、水戸部村、滝ノ浜村、長清水浜村が合併統合されてできた村である。震災前の南三陸町にはJR気仙沼線の駅が5つあったが、そのすべての駅が津波により被災している。とくに陸前戸倉駅は津波によって周辺施設が駅舎もろとも跡形もなく流失した。駅だけでなく戸倉保育所、戸倉小学校、戸倉公民館、自然環境活用センター、波伝谷地区漁業集落排水処理施設などの公共施設も甚大な被害を出している。この戸倉地区は志津川湾の最深部に位置するため、湾内に押し寄せた波が収斂され(寄せ集まり)強いエネルギーを生じさせたのかもしれない。漁港をのみ込み、松林をなぎ倒し、コンクリートの防潮堤さえ破壊し、海岸線の道路も削り取られた。怒濤となって上陸した津波はさらに行き場を求めて道路や水戸部川、折立川など中小の見境なく、黒い濁流が河川という河川を一気に遡り地域の奥深く遡上し大小の谷や沢を席巻していった。その後引き波となってからも周辺を蹂躙し、川沿い集落などは破壊したがれきと共に洗いざらい外洋へさらっていった。市街地の人たちは五十鈴神社や戸倉中学校に避難したが、海抜22Mの高台にまで襲った波に巻き込まれた住民もいたという。当時戸倉地区の世帯数は680戸で、そのうち


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